【社会貢献】 東北復興支援企画 石巻~女川 被災地の未来について考える 〈其の1〉特派員:田中慧美さん

5月末~6月頭にかけて、2年ぶりに石巻へ行ってきたうさね!
コロナ禍もあってなかなか現地に行けなかったけど、参加者のみなさんと今後の復興支援の在り方について考えたり、初めて女川にも行ったうさよ♪
それでは、2回に渡ってレポートするうさ~♡

まずは、田中慧美 特派員から視察の様子を伝えてもらううさよ♪
【1回目】 
5/26(木)~ 27(金)
参加者=9名、スタッフ3名、合計12名で行ってきました!

<5月26日(木)初日>※晴れ

東日本大震災から10年超経った節目の回として、今の東北の状況を把握するとともに、私たち三越伊勢丹グループ労働組合は被災地にこれから何ができるのか。
被災地の未来と新しい支援のありかたを探る旅に行ってきました。

<1日目>
石巻に到着し、2日間お世話になるNPO法人やっぺすの柏原さんと合流。
天気にも恵まれて、バスで大川小学校へ向かいました。

むむっバイカラー仲間⁉
石巻駅に到着うさ♪
やっぺす柏原さんと

※「やっぺす」とは、東北弁で(何かを)やろう!の意味です。

しばらく行くと左手に穏やかな北上川が見えてきます。
整備されたきれいな道路が開けた場所に、大川小学校(石巻市震災遺構)がありました。
実際津波の被害にあった語り部さんからお話を伺います。

語り部さんと合流 献花を行いました
地震の衝撃により地盤沈下した校門跡

大川小学校は北上川からの遡上(橋に瓦礫が堆積したことによる逆流)と、海からの津波で校舎の2階天井まで浸水。74名の児童教員が犠牲になりました。被災当時、保護者の皆さんはすぐ裏手に普段から昇り慣れている山があるから、きっと全員そこに逃げて無事であると信じていたと言います。
なぜ逃げられる場所が近くにあったのに、大勢が津波に飲み込まれたのか。
生き残った学校関係者はこんなに大きな津波が来るとは思わなかったと答えたそうです。
この言葉は他の場所でも何度も聞くことになりました。

倒壊した校舎と体育館をつなぐ渡り廊下
全員が集合した校庭と裏山との距離

この悲劇をけして風化させずに残したい。この出来事をみんなに知ってほしい。
語り部さんからは、まだ憤りを隠せないお気持ちが強く伝わってきました。

・事前の避難計画が不十分で適切な場所に避難できなかった。(責任者が判断できなかった)
・津波の大きさを想定できずその場に止まって手遅れになった。(校庭に50分待機)

大川小学校の出来事からは緊急事態における事前準備、被害想定の重要性をあらためて認識させられました。

やるせない気持ちを感じつつ、次の訪問地<雄勝ローズファクトリーガーデン>に向かいましたが、ここで受けた防災講習で、またひとつ、この出来事に対する視点が増えたと思います。

元教師で、講師の徳水さん
防災講習 受講の様子

雄勝は海より離れた川の上流にありながらも、被害が大きく、今は民家がありません。
そんな雄勝をふるさととしてまた足を止めてもらえるようにとのことから、少しずつ花を植えてローズガーデンを作ったそうです。

講師の徳水さんは自分が大川小学校の教員だったら、正直判断できなかっただろうとおっしゃっていました。それはやはり「こんなに大きな津波が来るとは思わなかった」から。

津波より、山崩れへの危険性を重視してしまったかもしれない。
大川小学校でひとり山に避難して助かった先生も、先に安全性を確認してから児童を誘導するつもりだったかもしれない。
そう聞いて、私がはっきりと感じたことは今自分が被災したら正しい判断ができるのか、その想定、準備ができているのかということです。

大川小学校はハザードマップ上津波の被害は想定されていませんでした。
では自分の住んでいる地域は?勤務している都心では?通勤経路では?
これから想定される南海トラフ地震による被害シミュレーションをわかりやすく提示してくださり、被災という事実をいかに自分事にできるのか、ということを教えていただきました。

ローズガーデンの様子
集合記念写真

<5月27日(金)2日目>※あいにくの雨

<2日目>
2日目はあいにくの雨でしたが、女川に向かいました。
目的地は女川フューチャーセンターカマスと女川シーパルピアです。
石巻からバスで約20分ほど、三陸地方南部の女川は日本有数の港を有していましたが、
被災した市町村の中でもっとも高い津波に襲われています。

フューチャーセンターでは特定非営利活動法人アスヘノキボウ、代表理事の後藤さんより、
女川復興がどのように行われてきたのか、START!ONAGAWAをスローガンにどのようなまちづくりが行われてきたのかをお伺いしました。
津波の被害を受けた地域は安全対策として主に堤防を建設していますが、その手法は様々で、女川は高い堤防を作って海を隠すのではなく、まちの土台の高さを積み増して海の見える堤防を作ることを選びました。
まちづくりを主導してきたのは20年後も責任を負える、若い世代。
海とともに生きてきたまちの人たちの声を集めて、海の見える公園のまち女川シーパルピアを作ったそうです。

過疎化や山林問題など日本の地方が抱える社会課題を、女川を通じて日本、世界に貢献するという意志のもと、被災地として支援を受けるフェーズは終わり、受けた恩恵を社会を通じて還元していくという次の段階に進んでいると感じました。

アスヘノキボウにて集合記念写真

シーパルピアはあいにくの雨で海を見渡すことができませんでしたが、夕日が通りの真ん中に沈むよう、住民の声を反映して当初の予定から設計を修正されて作られたそうです。
ぜひまた訪れてその夕日を見てみたいと思いました。

名物 女川丼
シ―パルピアの夕日(パンフレットより引用w) 

お昼を頂いたらまた石巻市に戻り、南浜祈念公園、門脇小学校(石巻市震災遺構)へ向かいます。

公益社団法人の3.11みらいサポートさんがアテンドしてくださいました。
まだ雨も降っていたので、まずはバスの車内で<津波伝AR>というアプリを使用して、被災前や直後の様子を映像で確認します。ピンの立っているポイントでより詳しい状況を知ることもできました。実際まちあるきをしてAR体験をすることもできます。

アプリストアでダウンロードできるので、ぜひ一度見ていただきたいと思います。

イングちゃんと津波伝承AR
AR震災前
AR震災直後
AR震災後

かの有名な<がんばろう石巻>の看板が立っていたところが南浜祈念公園
今は4代目の看板が設置されています。

初代看板は山の方を向いていて、山から毎日家族を探して下りてくる人たちの顔を少しでも上に向かせたい、励ましたいという思いを込めて、住民有志が瓦礫を使って作ったそうです。南浜は津波だけではなく、瓦礫に引火した津波火災に見舞われて多数の犠牲者が出ました。以前は住宅が密集していたところも、いまはもう新しく人が住むことはできません。

祈念公園から少し離れたところに門脇小学校があります。

門脇小学校全景
津波到達地点に印がついています

校舎は火災で焼けてしまいましたが、児童教員は全員無事に裏山に避難できて全員助かりました。
事前の計画に基づいた裏山への避難訓練を繰り返し受けていたそうです。
事前に準備されていたから、意思決定の場面で混乱することなく避難が実施され、全校児童が助かっていました。

そのことについてさらに詳しく知れたのが、MEET門脇という震災伝承施設です。
みらいサポートさんがクラウドファンディングも使用して建設されました。

はっ!ロゴのなかに「3.11」が隠されているうさ~

シアターで被災した住民の声を上映したり(とても胸に迫る体験談を話してくださっていました)、こどもたちのリアルな体験談がアニメーションで掲示されていたり、とてもわかりやすく3.11の当時の様子を教えてくれました。

(※A)
(※B)

(※A)・・・震災前になにがあったのか、思い出の付箋が貼られています。
(※B)・・・売店には<あの時あったらよかった>という声を活かした避難グッズも販売されています。

門脇小学校の避難がうまくいったこと、またその際はまわりの住民の助けもあったこと。
近隣の大きな工場の従業員が集団避難しているのを見た住民もあとに続いたこと。
誰も動いていなければ、やはりここでも正常バイアスが働いて、動けずにいた人たちももっと多くいたはずですが、お互いの声に影響されて、地域の避難が進んだのだろうと思いました。

防災意識を高く持つということは、自分の命だけではなく、周りの人たちのことも助けることができると強く感じました。

門脇小学校でも震災遺構として様々な展示が行われています。

(※C)
津波火災で木材が消失した学習机
被災した地域の消防車

(※C)・・・校長室 倒れた金庫に保管されていた卒業証書は無事でした。

被害状況をまとめたパネル
被害状況をまとめたパネル

印象に残ったのは教壇を使った避難誘導の様子です。
臨機応変な素早い判断力のもと避難が実施されたことが伺われました。

(※D)

(※D)・・・実際の仮設住宅がそのまま展示されているスペースもありました。

初代がんばろう石巻の看板も保管されていました 青のペンキは海を表しているそうです。

編集後記・・・・・・・・・・特派員:田中慧美

2日間の行程を経て、新しい支援のあり方とはどういうことなのか。
被災地はとてもきれいに整備され、新しい道路もたくさんできていました。
そこに暮らす人たちも、支援されるだけではなく、復興を経て次の段階に進もうとしている、受けた恩を返したいと思っている様子が伝わってきました。

それを受けて私なりに考えてみた、私たちができること。
・東日本大震災の教訓を風化しないよう、拡散していく。
・東北をきっかけに防災意識を高め、自分事とし、自分と周りの人を助けられるような取組みを行う。
・復興した東北に人が集まるよう、魅力あるまちの様子を拡散していく。


現地の人から思いを受け取り、周りに波及させて社会に還元したい。
そう強く感じた旅となりました。

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