「最後だとわかっていたなら」
仙台三越支部の小林です。「<本部東北復興支援企画>次世代につなぐ 石巻の今を知ろう!」に初めて参加し地元のメンバーとして2日間企画のサポートをさせていただきました。
ここでは、東北、岩手出身の一人の人間として感じたこと、皆さんへの想いをブログで綴ります。
まず、1日目。
石巻駅で集合し、「石巻南浜津波復興祈念公園」に向かいました。
この南浜地区は、津波や火災により500人以上の方々が犠牲となり、また地盤沈下の被害を受けるなど、東日本大震災の平野部における被災を代表する場所です。

公園から震災遺構でもある門脇小学校までの道中、語り部さんがあの日のことを伝えてくださいます。
語り部の方の「あの日、私たちは油断していた。だからあの日のことを伝え、知ってもらい、皆さんには生きてほしいんです。」
という、訴えにも近い言葉が頭に強く残りました。
そして、2日目。
2つのチームに分かれましたが、わたしは「雄勝ローズファクトリーガーデン」に同行しました。
そこでは、Team大川の「おかえりプロジェクト」で使用するお花の鉢植え作業を行いました。
おかえりプロジェクトとは、もう一つのチームが向かった「震災遺構 大川小学校」でお盆に実施されるもので、“亡くなった方も、今を生きる方も故郷に戻ってこられますように。”という願いが込められた企画です。
その後は、簡易防災キットをつくるワークショップや、灯篭づくり、徳水博志さんから防災講習をうけ解散となりました。

全国各地から、リピーターの方々を中心に、お子さんも数名お越しになり、熱心に語り部さんのお話に耳を傾ける姿は、私の目からはどこか頼もしく感じました。
少し私自身のお話をしますと、現在29歳、気仙沼の隣町(岩手県)で育ちましたので当時は実家で地震を体験しました。
震度7でした。
宮城内陸地震などそれなりに地震を経験していましたが、「あっ死ぬかも」と思った地震は、今のところあれが最初で最後です。
3月11日は四六時中揺れていて、夕方から雪が降る寒い日で、夜は気仙沼の方角の空が真っ赤に光っていたことを覚えています。(後から津波で流された石油タンクが原因の海上火災だと知ります)
さて、どうして東北の人たちは、「311を風化させない」と行動しているのでしょうか。
それは、「また必ずやってくるから」です。
それもほぼ100%の確率で。
しかも日本各地で被災する可能性があります。
私たちはその時に、悲しい想いをする人を一人でも多く減らすため、あの日東北で何が起こり、じゃあどう備えるのか。
を本気で、自分事として考えてほしいと願っています。
そしてもう一つ。
電気も水道もガスも何もかも止まったあの時、田舎ではこんな出来事も起こっていました。
雪がちらつき始めた夕方、お寺の和尚さんが見たこともない大きさの蝋燭を家々に届け、翌朝には牛農家の方は採れたての牛乳を、農家の皆さんは野菜などを自主的に皆に配りました。
そして、目の前の道路は約40キロ近くにわたり、全国から来てくれた応援の緊急車両で埋め尽くされることになります。
全国各県のナンバーが付いた消防車が成す渋滞がどれだけ心強かったか。
「気仙沼を助けてくれー!」と願っていました。
今でも、あの時感じた想いは、わたしの百貨店人としての原動力にもなっています。
「最後だと分かっていたなら」
岩手日報 <3月11日を、すべての人が「大切な人を想う日」に。>プロジェクトでつかわれた、ノーマ・コーネット・マレックの詩です。(お時間あれば岩手日報の取り組みや、この詩をご覧ください)
【朗読】最後だとわかっていたなら (作:ノーマ・コーネット・マレック/訳:佐川睦 /朗読:土師伊久美) (youtube.com)
もう既にこの世界の小学生以下は全員震災を知りません。
2011年3月11日に起こっていたことを知り、悲しくて重い、どこか遠いところの話ではなく、自分事として捉えて来る災害に備え、大変な状況や、困った人がいればお互いに助け合う。
そして、何より失って初めて気づくのではなく、何でもない毎日を、大切な人や周囲の皆さんを大切に想いながら過ごすことがわたしたちに必要なことかもしれません。
少し長くなりましたが、参加された皆さま暑いなかお疲れ様でした。
感じたことを周囲の大切な方々に伝えてみてください。
そして、これを読んでいただいた皆さま、美味しい食べ物と、素晴らしい風景あふれる東北にぜひ遊びに来てください!
ありがとうございました。
